平松範忠

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平松 範忠
時代 江戸時代後期→明治時代
生誕 不明
死没 不明
改名 平松範忠→若江範忠
別名 葛野式部
氏族 平松家若江家
父母 父:平松時門、義父:若江量長
兄弟 時言、範忠
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平松 範忠(ひらまつ のりただ)は、幕末公家平松家出身であったが、平松時門の次男(御厄介)であったため、西園寺家には家来同然のように扱われるなど、正式に平松家の人間として扱われることは少なかった。葛野式部若江範忠とも。

概要[編集]

天保11年(1840年)に、当時の大典侍勧修寺徳子によって稚児に命じられ、成長して退身してからは石清水八幡宮坊官となり、その後還俗して平松家の「御厄介」となった。その後は「葛野式部」を名乗った。葛野姓は、西洞院時良の次男・勝成が称した氏である[1]

明治5年(1872年)8月5日には若江量長の養子となっている[2]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 松田敬之『次男坊たちの江戸時代 公家社会の〈厄介者〉 』(吉川弘文館、2008年)
  2. ^ 国立公文書館デジタルアーカイブ「華族平松時言叔父範忠ヲ東京府士族若江量長ノ養子トス[1]